三浦市には鎌倉殿と13人の重臣たちにゆかりのある寺社史跡が点在しています。

 平安末期、武士の台頭により、東国に多くの氏族が誕生します。
 その一つ、源家累代の家人となる『三浦一族』の始まりは、前九年の合戦で源頼義に従い、その恩賞として1063年三浦の地を与えられ衣笠城を築いたとされる三浦為通(みうらためみち)です。為通の孫義継(よしつぐ)以降は、源義家の「義」の通字を貰い、義明、義澄、義村と「義」をつけ源氏との絆を深めていきます。
 また、三浦義明の孫として生まれ、関東御家人を統率する初代の侍別当(後の侍所別当)となった和田義盛の本拠地も三浦市にあります。 源頼朝の手植えと伝わる樹齢800年の大銀杏がある『海南神社』、源頼朝も花を愛でに訪れたといわれる大椿寺(椿の御所)、本瑞寺(桜)、見桃寺(桃)の3寺院、『頼朝三崎三御所』も三浦市内にございます。
 鎌倉時代とのつながりを感じられる三浦市へ、時間旅行に旅立ちませんか。

<鎌倉殿と13人の重臣たちゆかりの地紹介>


和田城址

和田小太郎義盛は16歳の秋、父の死を境に鎌倉杉本城から和田に移り、このあたりは義盛の居館があったところです。
その頃すでに和田は三浦半島有数の穀倉地帯であったために、このあたりが領民を守り、水田を管理するにも地の利を占めていたこともありました。
義盛は和田を終生の根拠地と定め、合戦にのぞんでこの地から多くの兵士が出陣し、食料が戦陣に送られるなど重要な役割を果たしていたところです。
現在、和田館(わだやかた)はその跡をとどめていませんが、この館をかこむようにして、木戸脇・唐池(空池)、出口、赤羽根、矢作などの地名が残っていて、往時を偲ぶことができます。
また、和田館には木曽義仲の妾、巴御前が義盛に預けられ、ここで余生を送ったといわれています。

【近隣の観光地】
三浦YMCAグローバル・エコ・ヴィレッジ(500m)
和田海水浴場(650m)

和田義盛旧里碑

和田一族を率いた和田義盛は、頼朝挙兵に参加したとき34歳でしたが、以降大いに活躍し、鎌倉健府の大立物でした。その功によって最高職の侍所別当に任ぜられ、頼朝、頼家、実朝の三代にわたって忠誠をつくしましたが、北条氏とことごとく対立するようになり、ついに北条義時の挑発と策謀にのり、いわゆる「建保の乱」を起こしましたが、同志と信じていた同族の三浦義村の北条方への寝返りもあって、建保元年(1213年)5月4日、鎌倉由比ヶ浜で北条氏のために滅ぼされてしまいました。
時に義盛67歳、この石碑は武将和田義盛の在所と思われるこの地に、郷土の武人として、悲運の最期を偲び、その武勇をたたえて大正10年3月に建立されました。

【近隣の観光地】
三浦YMCAグローバル・エコ・ヴィレッジ(1000m)
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神明白旗神社

祭神:天照大神、和田義盛
神明社は、のちに白旗神社に合祀されたもので、神明を冠につけこれを神明白旗神社と呼んでいます。
この神社の由来としては、鎌倉幕府侍所の別当であった和田義盛が北条討伐の兵を挙げたが、利あらず敗れ、鎌倉の和田塚に一族ことごとく自刃したが、義盛の善政をしのび、弘長3年(1263年)和田の郷氏がこの地に社殿を設けて白幡神社と称して祭祀をあつくしてきたものです。
また、白旗の名を得たのは和田義盛が文治2年(1186年)平家討伐に出陣し大勝を収め、城内を開放して紅白の旗を建て城内鎮護の八幡社に戦捷報告したことに始まり、領民を交えた酒席での戦勝の舞「初声」を舞ったとされていて、「初声町」の名もそこから始まったといわれています。

【近隣の観光地】
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天養院

天養院は、江戸時代に書かれた「新編相模國風土記稿」に「この寺は和田義盛館鬼門の鎮護として建立する。本尊薬師は行基作」と記されており、和田義盛公ゆかりの寺です。
またこの寺の本尊薬師像は義盛公の身代わり薬師といわれていて、次のような話が残っています。「和田合戦のおり総身に負傷した義盛が痛さを思わず一同不思議な思いをした。その時この薬師像が顔から胸に傷を負い血潮が流れたという。」
これをみて一同薬師の加護を念じ大いに戦ったと伝えられています。寺に残る和田義盛公の位牌は、「筌竜院殿前左衛門慰義盛安楽大居士」建暦3年(1213年)のものです。

【近隣の観光地】
ソレイユの丘(2.3Km)<横須賀市>

光念寺

1190年、和田義盛による開基・創建とされます。正式名称は「浄土宗見龍山無量寿院」、本尊は阿弥陀仏です。
源頼朝が1180年、平家追討のため挙兵をするも大敗、参戦していた和田義盛は、父・三浦義明が守る衣笠城から落ち延び、久里浜より海上へと逃げました。その際、危機を救ったのは龍神であったと信じた義盛は、発心して筌竜弁財天をこの地に祀ったと伝えられています。この、筌竜弁財天は8本の腕があり武具を持っている独特な弁財天です。また、本堂の天上には左右4体、合計8体もの龍が舞う見事な天上絵があります。和田義盛の発願による運慶作の仏像は芦名の浄楽寺に祀られています(いずれも国重要文化財)。

【近隣の観光地】
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チャッキラコ三崎昭和館(350m)

海南神社

三浦大介義明が源頼朝挙兵とき、源平の争覇を当社に占った際、白と赤の狐が戦って白い狐が勝ったので、源氏方に荷担したとつたえられています。境内には頼朝公手植えと伝えられる大銀杏(樹齢約800年)があります。また、御手洗池に架かる神橋の擬宝珠は、三崎御船奉行向井左近将監忠勝が寛永17年(1640年)に奉納されたものです。
また、毎年正月15日に当社に奉納する歌舞「チャッキラコ」は、資盈公の妃、盈渡姫が土地の娘に教えたとの口碑があり、また歌舞島に遊んだ源頼朝公の旅の慰めにと、里女の歌に合わせて、童女たちが即興的に小竹を叩いて踊ったとも伝えられており、昭和40年5月、神奈川県の無形文化財に指定されました。

【近隣の観光地】
三崎城址(400m)
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チャッキラコ三崎昭和館(300m)

見桃寺(桃の御所)

建久の昔(1190年代)、時の将軍源頼朝は、風光のすぐれた三崎の地に三つの御所を設けました。桜、桃、椿の御所がそれで、見桃寺は「桃の御所」のあったところで、鎌倉将軍がしばしば来遊したといわれています。また、この寺の墓地には江戸初期、お船奉行として東京湾の守備にあたった向井将監一族の墓碑があります。
柴陽山見桃寺の開基は慶長18年(1613年)三崎船奉行の向井兵庫頭政綱が、駿河の国、興津の清見寺の僧、白室玄虎和尚を迎えて開山したと伝えられています。
また、見桃寺は、三浦市内に点在する五つの寺院と二つの神社によって構成されている「三浦七福神」の一つ、桃林布袋尊として数えられます。桃林布袋尊は、7代住職桃林和尚の信仰したもので、大きな袋を背負った肥満鼓腹の温顔は、古くから近郷近在の人々に親しまれ、かつ敬われてきました。そして、不老長寿、無病息災の守護神とされています。

【近隣の観光地】
三浦市海外町のスランプ構造(600m)
イルカの壁画(250m)
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本瑞寺(桜の御所)

建久の昔(1190年代)、時の将軍源頼朝は、風光のすぐれた三崎の地に三つの御所を設けました。桜、桃、椿の御所がそれで、本瑞寺は「桜の御所」のあったところです。
この地に多数の桜樹を植え、合わせて城ヶ島の桜も望見するといった観桜の宴をしばしば催し、二代将軍頼家、三代将軍実朝もここを訪れています。
本瑞寺はもともと、海雲山(入舩の浪切不動堂一帯)にありましたが、度々の類焼で、享保4年(1719年)にこの地に移りました。
寺には、「康永三年(1344年)甲申三月」の銘がある神奈川県指定文化財の梵鐘があります。また、文政4年(1821年)7月建立の山門があり、江戸時代の木造建築としては、大変貴重です。
なお、境内には、近代美術の先覚者、岩村透の墓及び胸像(朝倉文夫作)、彫塑家北村四海の墓及び作品、ホトトギス派の俳人、松本たかしの墓及び句碑も建てられています。
海に囲まれ温暖な三崎の小高い丘の上にあり、冬でも陽が射していれば暖かく感じるのどかな場所です。

【近隣の観光地】
三崎城址(300m)
うらりマルシェ(600m)
チャッキラコ三崎昭和館(350m)

大椿寺(椿の御所)

建久の昔(1190年代)、時の将軍源頼朝は、風光のすぐれた三崎の地に三つの御所を設けました。桜、桃、椿の御所がそれで、大椿寺は「椿の御所」のあったところです。
当時、この御所には頼朝の側室が住んでおり、庭内は椿の花で埋まるほどであったそうです。
頼朝の寵愛を一身に受けていた側室が、頼朝の没後、尼となり「妙悟尼」と称して、頼朝の菩提をなぐさめ、三十余年をここに過ごしたと伝えられています。
「大きなる椿の樹ありあかあかと ひとつも花を落とさざりけり 山椿照りしずもれる真昼時 小僧むっつりと坂下り来も」
大椿寺は、北原白秋が居を構えた異人館の近くにあり、よく散歩に訪れています。
「この寺が大椿寺ぞと入り来て 寂しと出でぬ日暮を二人」
この歌は、三崎を去った白秋が十年の後に前田夕暮と再びこの寺を訪れた時の一首です。しかし、そこには白秋が一家をあげて移り住んだ異人館はすでになく、隣の屋敷もまた人手に渡るありさまで、いつに変わらぬ大椿寺だけが、ひっそりと白秋を迎えたのでした。

【近隣の観光地】
神奈川県立城ケ島公園(1.4Km)
白秋記念館(1.2Km)

福寿寺

この寺は岩浦山福寿寺と称し、臨済宗鎌倉建長寺の末寺であります。開山は慶叔大考禅師大和尚で、建暦2年(1212年)3月、開基は三浦大介義明の孫にあたる三浦駿河守義村で、寺は正治2年(1200年)3月建立とされています。
御本尊は聖観世音菩薩で、行基菩薩の作といわれています。寺宝として、三浦義村が愛用したと伝えられている鞍、鎧、脇差等が保存されています。
三浦氏は、源頼朝が鎌倉幕府を開くまでの間、一族を挙げて頼朝を援け、強い信頼を得ていました。この時期の三浦氏は北条氏を凌ぐ勢力で、義村は三浦氏の最も隆盛の時代を築いた人であります。
寿永3年(1184年)2月、一の谷の鵯越の山路で迷ったとき、日頃信仰していた南向院の地蔵菩薩が義村の馬首に現れ、義村を導き、頂上に至るや「この坂を下るべし」とのお告げを得て、叔父義連等と坂を馳せ下って大勝を得たと伝えられています。
今、塔頭南向院の跡地には、大正10年(1921年)3月に建立した三浦義村の墓碑があります。

【近隣の観光地】
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三浦義村の墓

三浦義村は、三浦一族六代当主であり、石橋山の合戦の折、子孫を守るため自身は衣笠城で討ち死にした三浦義明の孫にあたります。武勇に秀でるばかりか政治力もあり、三浦一族の中でも隆盛を極めた一人です。領民のため開拓に尽力するなど、領内の治世には撫民の心が感じられる。義村が開基となった福寿寺は要害を兼ねていたと考えられ、没後は菩提寺に近いこの場所に墓所を置くよう望んだといわれています。
関東大震災の折には、義村の墓石が崖下の海まで落ちてしまいましたが、地元の人々によって再建されました。なお、横須賀市の満昌寺には祖父の三浦義明像(国指定重要文化財)があり、当時の面影を伝えています。

【近隣の観光地】
金田漁港朝市(450m)

(番外) 油壺・新井城址

三浦一族滅亡の地である新井城は、面積約128ヘクタールの自然をそのまま利用した要害でした。
相模湾に突出したこの一帯は、小網代湾と油壺湾にはさまれ、三方が海に面した断崖であり、陸路は北方約3キロメートルの大手の引橋のみであり、この橋を切って落とせばどこからも攻め込まれないようになっていました。
引橋は後に地名になりましたが、ここで伊勢新九郎(北条早雲)勢は、橋を引かれて渡ることが出来ず、三浦勢に時を稼がれています。
現在は、関東大震災による隆起で、往時の面影はうすらいでいますが、当時としては多くの軍勢をもってしても攻めがたく、城としても、守りに優れた構えであったといえます。
室町時代の居館としての新井城の遺構は、本丸を中心にめぐらされている空堀や土塁に往時を偲ぶことが出来ます。
油壺の名のいわれは、永正13年(1516年)新井城を最後の居城として立て籠もった三浦一族が北条早雲の大軍を相手に3年間にわたって奮戦しましたがついに全滅し、一族の将三浦道寸義同(みうらどうすんよしあつ)をはじめその子荒次郎義意(よしもと)は自刃、他の将兵も討死、または油壺湾へ投身したと伝えられ、そのため湾一面が血潮で染まり、まるで油を流したような状態になったので後世「油壺」といわれるようになったとの説があります。

【近隣の観光地】
三浦道寸公の供養墓(550m)


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【相互リンク】

伊勢原市